危うさとつまらなさ

電車に轢かれれば、首を吊れば、包丁で左胸を刺せば、睡眠薬を大量に飲めば、血中アルコール濃度が0.4%を越えてしまうほど酒を飲めば、黒い、あのドス黒い波にのまれれば、人は死んでしまう。

生きて、呼吸をしている限り、死ぬという可能性が常に付きまとっている。

 

そんな身近な存在は、身近すぎて見えなくなる。そして唐突に、ゾッとするような恐怖とともに、視界へ入ってくる。

比較的身近なところに死があるということはもちろん実感しているはずなのだ。

ばあちゃんの肉体が、ものの数時間で焼かれ、泣きながら骨壷に詰め込んだあのスカスカの骨を、小学校の頃によく遊んだあいつが棺桶の中で一生目覚めることのない眠りにいたあの表情を、黒い津波の中に、無抵抗な車が何台も流されていたあの映像を、今目を閉じれば鮮明に死に顔を思い浮かべられるほど、死はショッキングなものなのだから。

だけど、そんなショッキングな記憶も日々の忙しない日常に薄められていく。

 

22歳になった。

僕にとっての21歳は二人の知り合いが逝き、別れの年となった。

今のコミュニティの繋がりが何かの拍子に希薄になり、なくなってしまえばもう二度と会わない関係性だったかもしれない。

だけど、かなり近くに死を感じた。

その訃音に接したときに、悲しみよりも怖さが先に自分の感情というものをノックしてきた。死がこんなにも近くを歩いていることにゾッとした。ああ、こんなにもすぐそばのものを忘れかけていたのだと。

 

 

亡くなった彼、彼女が生きていた意味はなんであったのだろうか。何を僕に与えてくれたのか。

自分の生きている意味はなんであるのか。誰かに何かを与えているのだろうか。与える意味すらあるのだろうか。

 

そんな答えのない問いかけと死への恐怖がどうしようもなく襲ってくる。

 

生きている理由なんてものは僕の場合、「なぜ生きているのか」よりも「なぜ死なないのか」の方が多分近い場所にあるのだと最近は思う。

死ぬ理由がないから。なんとなく怖いから。ただそれだけ。

 

誰かのためにどうかしようとか、何かを成し遂げたいとかいう野心はあまりない。生きていれば何かいいことあるよと言われても、あまりピンと来ない。

ただ、やりたいだけの男女がやって生まれた自分に生きている意味などという意味付けをすることはものすごくくだらないことなのではないかとも思う。

だからそんな消極的に生きている僕の前に、自分たちがその活動によって何か成し遂げることができる存在だと、本気で思っている人を見ると、とてつもなく羨まさを感じる。

このクソつまらない世界の中で、なぜそこまで楽しそうにできるのかイマイチ理解できない。

 

紙一重なのだ、と思う。

別に自ら死ぬ気はないが、何か死ぬきっかけや理由さえあれば、ひょんなことで死んでしまいそうな、危うさ。生きてることのつまらなさ。

そのつまらなさを皆はどうやり過ごしているのだろう。