雑誌の文字量ってこんなにあったっけ?

代官山に用があった帰りに、代官山蔦屋書店へ寄った。

ありふれた街の書店には置いてない、写真集や雑誌、CD、映画、文具、そんなものが数多く取り揃えられているので、いつもワクワクしてしまう場所だ。

「ここって一回行くと抜け出せないよね~」などと仰るシャレオツサブカル系を横目にほくそ笑み、勝ち誇ったかのように、サブカル界のディズニーランドへと踏み入れたのはいいものの、一時間後には自分もその一人だったことに気づく。というようなことを10数回はしている気がする。

目的もなく、ただ漠然と入ると、誘惑の多さに、楽しくなって、抜け出せなくなるのだ。

 

だが、今日は何かが違った。

いつものように雑誌エリアを一周しようとしたのだが、20分もしないうちに、ひどく疲れてきたのだ。

どんな特集で、どんな情報がどのように載っているのかを粗く立ち読みでチェックするのだが、ぜんぜんパッと入ってこない。

雑誌ってこんなに文字量多かったっけか。

 

雑誌の傾向として文字量が多くなって読み応えのあるようになったのか、僕の読み方は変わってしまったのか、あるいは単なる勘違いなのかはわからないが、一誌にかける立ち読みの時間が長くなったのは事実で。

前より立ち読みが意味をなさなくなってきたなあなんて思ったりする。

 

仮に傾向として文字量が多くなっているならば、雑誌はいかに手にとってもらえて、レジまで連れて行ってもらうかが勝負であるから、立ち読みでは済まされないように、文字量が多くなってきているのだろうか。

 

 

そもそも何誌も買って、隅から隅まで全部読むということは無理に等しい中で、僕はめぼしい情報のみを読んではいるのだが、みんなは雑誌をどう読んでいるんだろう。

雑誌を制作している出版社で編集のバイトをしていることもあり、自分の携わった雑誌を読んでいる人をたまに書店でみかけると、別な雑誌を読むフリをしながら横については、どのページどの企画を読むのだろうと観察しているのだけれど、立ち止まるページが「えっそこなんだ!」と思うことがよくある。自分が面白いと思ったことと誰かが面白いと思うことはもちろん違うわけで。

みんなどの雑誌のどの企画が好きなのかしら。

 

あっ文字量多くなっているんじゃという話からだいぶ逸れたけど、まあそんなことを考えた1日。

 

2014/04/13

 

note始めました。→https://note.mu/taiyaki555

人間-ある行動や、言動に対して、自分というフィルターを通して、勝手に解釈をし、意味づけをする動物。

人はある行動や、言動に対して、自分というフィルターを通して、勝手に解釈をし、意味づけをする動物だ。

村上春樹はその著作で、「理解というものは、つねに誤解の総体にすぎない」と述べているが、これはまさに真理で、この世の中には、常に思い込みや、偏見に満ち溢れている。

自分の理解したことを、誰かに伝えたとしても、全く同じように解釈されるということは、まずないだろう。それと同じように、誰かの理解を同じように、享受することはできない。

寂しいことかもしれないが、理解したと思っていることは、おそらく誤解なのだろう。

渋谷で『白ゆき姫殺人事件』を観た。

記憶の曖昧さ、思い込みの危うさ、バーチャルでの数の暴力。

まさに「誤解の総体」というものを表していた。

 

あと、菜々緒と結婚したい。

 

2014/04/12

 

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2013/4/12

ドロドロ、キラキラ、東京。

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東京。

押し寄せる人。人ゴミ。ゴミ。

混沌を孕みながら、津波のようにどっと押し寄せ、街を飲み込んでは引いていく。

 

人の津波の中で、

皆が違うところを目指し、違うものをみる。

皆が同じところを目指し、同じものをみる。

 

目をギラつかせて獲物を探す、マルキュー前の若者。自分の席を確保しようと走る埼京線の初老女性。牛の脳みそや睾丸まで貪るホルモン屋のリーマン。何かに取り憑かれたかのようにショーケースを眺める、アキバの中年。

それは今まで、嫌いだと思いたかったもの。

だけどなんだか、嫌いになれないもの。

 

必死に、這いつくばって、しがみついて、死にたい死にたいと叫びながらも、それでも生きている。

欲望がひしめく場所には生の活力があって、人の熱が感じられる。

その熱が熱すぎて、逃げ出したいと嫌気が差すときもあるけれど

その熱で温まりたくて、触れていたいとどこか寂しさを抱いている自分もいる。

 

人の欲深さは、魅力的で汚くて、なんて美しいのだろう。

東京はそんなドロドロが塊となって、汚さで輝いているのだ。

ことばも僕もぶきっちょだ。

ことばのスペシャリストは、すごい。

(すごいとしか形容することのできないもどかしさよ…)

 

広い視野と深い洞察力と夥しい数のインプットと自分と向き合うという作業をもってして、感情という水を凍らせ、自分の中から、取り出してしまう。

 

 

ことばは普遍的なものであるから

ことばのスペシャリストのありがたさや凄さというのは、普段意識されないのかもしれない。

 

例えば、

音楽経験のない大学生が、バイオリンの奏者として食べていこうと志すことや、

大学から野球をやり始めた人が、メジャーリーグを目指すことは、そうそうない。

なのに、

ライターになりたいとかコピーライターになりたいとかレビューを書きたいとか、ことばに纏わる職業に就きたいと、あまりにも簡単に言ってしまう。

僕だってそうだ。

それが良いとか悪いとかは言うつもりは毛頭ないし、というか言う資格なんて誰にもないのだけれども、ことばを身近に感じているからこそのことなんだなあと思う。

 

だけど、なかなか意識されない点があって。

ことばを紡ぐことは、苦しくて、もどかしい。という点。

 

 

ことばと接していると、

ことばはなんてぶきっちょなんだろう。

ことばで表現できない僕は、なんてぶきっちょなんだろう。と感じる。

 

どういう楽しさなのか

どういうツラさなのか

どういう悲しさなのか

どういう切なさなのか

どういう怒りなのか

どういう気持ち悪さなのか

どういう違和感なのか

 

仕事がうまくいかなくて悩んでいる同僚に掛けることば

映画を観終わったあとに、あのシーンの面白かったところ、つまらなかったところを語ることば

親に勉強しなさいと言われて、イラっとしたときに返すことば

ずっと片思いしていたあの子へのことば

 

 

水を手に掬おうとしても、指の隙間からこぼれ落ちてしまうように、自分の中の気持ちを掴もうとしても、なかなかことばにすることができない。確かに感じたものはあったはずなのに。伝えたいことは山ほどあるのに。

自分のとても近くにあるものを、ずっとずっとつきまとってきたものを、未だに上手に使うことのできない苦しさ。もどかしさ。がそこにはある。

 

その苦しさやもどかしさと戦いながらも、

終生の伴侶として、決して完全ではないことばと付き合っていかなければならない。

ことばを求めなきゃならない。

 

なぜなら僕らは、世界と繋がることを求めているのだから。

コミュニケーションはことばを主としたものだから。

 

 

ことばは、自分が経験したことのあることばからしか、選べない。

自分の中にインプットしてあることばでしか、語れない。

 

 

ことばを紡ぐときに、この文章を書いているときだって、僕の中には苦しさやもどかしさがある。言いたいこと伝わるかな?と常に考えながらもがきながら、紡いでいる。

だから、上手く伝わったときの感動ったらありゃしない。

そこには楽しさがある。伝えたいこともある。

ことばを使った職業は、どんなに苦しいものなんだろうと思うけれども、そこに身を置きたいとも思っている。

ことばは、水泳と同じで、もがいて、苦しんで、上手になっていく。

だから、このブログでもっともっとことばを紡いでいこうと思う。

拙いけれど、少しでも見てくれると嬉しいなあ。

 

 

ルームシェアしている同居人が、若い世代のことばをもっともっと聞きたいとのことで、文芸誌を出したいと動いている。

僕も出稿させてもらう予定だ。

楽しみ。

 

 

 

おやすみなさい。

デパートメントHへお邪魔してきました。

 

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 『デパートメントH』というイベントへお邪魔する機会があり、鶯谷へ。

 

フェティシズム・パラフィリアが入れ乱れ、『カオス』という言葉がそっくりそのまま具現化された場所で。

倒錯した性がそこでは普通というか、わかりやすく言うなれば、「普段は逆立ちしている人がそこの空間だけは、二足歩行で歩いている」というような、まだまだ知らないことだらけということを思い知らされた。

どんなに博学で、どんなに経験豊かでも、知らないことだらけのまま死んでいくのだと思う。世界は、残酷なまでに知らないことで溢れかえっている。

 

『デパートメントH』の片隅では野良SMプレイが繰り広げられていた。

それはSMプレイを初めてみた僕のSMへのイメージを覆すものだった。

ムチで打つ、蹴る、首を締める、ここまではまだ想像の範疇だったのだが、プレイ最後に女王様がM男を抱きしめたのだ。

僕はその瞬間ハッとしたのと同時に、涙がでそうになった。というか泣いていた。

 

SMプレイの良さやそこで得られる快感というものを、多くは理解できないけれども、最終的にしている行為、求めている行為というのは一緒なんだと。

軽率な言葉でいえば、「愛」があっての行為だと。僕がハッとしたのはその、ひどく当たり前のことに気付かされたからなのだと思う。

 

 

すべてのSEXやプレイに愛があるというわけではない。欲求を満たすというためだけにそういう行為をするのもあってもいい。

ただ、愛のあるそれは、美しいなあと、そして、できるだけ愛を持っていけたらいいなあと眠りに就く前にそう思い出したのでありました。

 

おやすみなさい。

 

 

P.S タイトルと導入がひどくてごめんなさい。

危うさとつまらなさ

電車に轢かれれば、首を吊れば、包丁で左胸を刺せば、睡眠薬を大量に飲めば、血中アルコール濃度が0.4%を越えてしまうほど酒を飲めば、黒い、あのドス黒い波にのまれれば、人は死んでしまう。

生きて、呼吸をしている限り、死ぬという可能性が常に付きまとっている。

 

そんな身近な存在は、身近すぎて見えなくなる。そして唐突に、ゾッとするような恐怖とともに、視界へ入ってくる。

比較的身近なところに死があるということはもちろん実感しているはずなのだ。

ばあちゃんの肉体が、ものの数時間で焼かれ、泣きながら骨壷に詰め込んだあのスカスカの骨を、小学校の頃によく遊んだあいつが棺桶の中で一生目覚めることのない眠りにいたあの表情を、黒い津波の中に、無抵抗な車が何台も流されていたあの映像を、今目を閉じれば鮮明に死に顔を思い浮かべられるほど、死はショッキングなものなのだから。

だけど、そんなショッキングな記憶も日々の忙しない日常に薄められていく。

 

22歳になった。

僕にとっての21歳は二人の知り合いが逝き、別れの年となった。

今のコミュニティの繋がりが何かの拍子に希薄になり、なくなってしまえばもう二度と会わない関係性だったかもしれない。

だけど、かなり近くに死を感じた。

その訃音に接したときに、悲しみよりも怖さが先に自分の感情というものをノックしてきた。死がこんなにも近くを歩いていることにゾッとした。ああ、こんなにもすぐそばのものを忘れかけていたのだと。

 

 

亡くなった彼、彼女が生きていた意味はなんであったのだろうか。何を僕に与えてくれたのか。

自分の生きている意味はなんであるのか。誰かに何かを与えているのだろうか。与える意味すらあるのだろうか。

 

そんな答えのない問いかけと死への恐怖がどうしようもなく襲ってくる。

 

生きている理由なんてものは僕の場合、「なぜ生きているのか」よりも「なぜ死なないのか」の方が多分近い場所にあるのだと最近は思う。

死ぬ理由がないから。なんとなく怖いから。ただそれだけ。

 

誰かのためにどうかしようとか、何かを成し遂げたいとかいう野心はあまりない。生きていれば何かいいことあるよと言われても、あまりピンと来ない。

ただ、やりたいだけの男女がやって生まれた自分に生きている意味などという意味付けをすることはものすごくくだらないことなのではないかとも思う。

だからそんな消極的に生きている僕の前に、自分たちがその活動によって何か成し遂げることができる存在だと、本気で思っている人を見ると、とてつもなく羨まさを感じる。

このクソつまらない世界の中で、なぜそこまで楽しそうにできるのかイマイチ理解できない。

 

紙一重なのだ、と思う。

別に自ら死ぬ気はないが、何か死ぬきっかけや理由さえあれば、ひょんなことで死んでしまいそうな、危うさ。生きてることのつまらなさ。

そのつまらなさを皆はどうやり過ごしているのだろう。

あの夏の清算

久しぶりに書きます。

東南アジアの日記を中途半端なところで投げ出した結果、違う話題の記事を書くのはなんか居心地が悪いし、抵抗があり、そのままずるずると過去に邪魔をされ今まで更新できなかったわけです。

書きたいことがたくさんある中で、この糞みたいな昨年夏の東南アジアの日記を清算しなければならないので、いつのこと話してんだよってツッコミも承知ですが、タイ、ラオス、カンボジアの思い出を簡単な文章と写真の羅列で締めようと思うわけです。

あの夏の三週間、初めて海外へ行くという経験をして、僕が感じた大事なことはすごいざっくり言うと三つ。

原体験をするということ。コミュニケーションとしての英語を身につけなければならないということ。そして日本をもっと深く知る必要があるということ。

旅ブログなんかでは良く出ているこの三つなので、僕がここで詳しく言うよりかは、世界一周した人のブログでもみた方が説得力があって、素晴らしいことをいっていると思うので、そっちを見てください。気が向いたら詳しく書きます。

 

これからまた気が向いたら自己満足で更新するので、暇だったらみてください。

 

以下写真。

 

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PS.主に日本宿に泊っていた中で、多くの刺激的な出会いをしました。素晴らしい出会いをありがとう。

ただ、ずっと同じ宿に滞在していてそこの主のような顔をしているやつは総じてクソだったぜ。